仕事にも精が出る 金曜の午後

バイト帰りにサンクスに寄ったら、槙原のtravelingがかかっていた。
最近メディアに疎いから、槙原が宇多田のカバーをしていた、ってこと自体も驚いたんだけれど、全く「槇原敬之の音楽」として聴こえてきたのにひどく驚いた。全く「宇多田ヒカルの音楽」という気がしない。あたかも槇原が作詞作曲し、槇原が歌うために書いたような、そんな錯覚にとらわれた。
カヴァーの理想とは、こういうカタチだと思う。つまり、カヴァーする側に必要なのは「歌い手のリスペクト」とかそういう観念的なものではなくて、「自分の音楽」としてその音楽を捉えなおし、「自分の音楽」として世に発信し、「自分の音楽」として世に認識させること。その前提として歌い手へのリスペクトがある、というのなら「歌い手へのリスペクト」も必要かもしれないけれど。
だから、歌の影に元の歌い手の影が見えていれば、その段階でそのカヴァーは失敗なのかもしれない。まるで松浦の影を感じさせなかった(少なくとも僕は感じなかった)夏焼のトロ恋がハロプロ内カヴァーでは数少ない成功例だと思う。(勿論夏焼はまだまだこんなもんじゃない、とは思うけれど。)
だからカラオケコンは歌う側次第でもっと観客を惹きつける可能性があると思う。そしてそれは既にそれなりの経験を積んだソロシンガーたちに期待できるのではないかと。
そんなわけで、エルダークラブも見に行こうかなと、ちょっとだけ思った。結局行かないんだろうけど。