アンチ勧善懲悪

アクの強い話。
ドラマを観るとき視聴者は主人公に感情移入をすることが多い。だから解り易い勧善懲悪のストーリーが長く愛されてきたんだろう。ただ、そうなると勧善懲悪ルールが破られると視聴者は不安を抱いたり「わかりずらい」と感じたりする。でも、そっちの方が現実に近くて、だから現実世界を生きるのは難しいのかなぁ、なんて哲学してみる。
ごっちん主演のドラマを観た。「人を利用し、その犠牲の上にのし上がる」という福江弓子(後藤真希)の思想は勧善懲悪でいうところの「悪」であり、事件の解明にまい進する鈴木香織(星野真里)が「善」として対応している、ように見える。真実を追究し、悪を紛糾する、というのは一見紛れも無い「善」である。しかし、この物語は勧善懲悪で終止しない。終盤、シンプルな勧善懲悪構造は突如崩壊する。
弓子が全てを打ち明けた、その会話の録音。勧善懲悪ルールに従うなら、このテープは自首を促す材料か、もしくは警察に提出する資料として利用されるはずだ。けれども、香織が選んだ用途は違った。
ワイドショーのスクープに利用してやろうというのだ。
それはつまり、弓子を生き地獄に叩き落すことを意味した。その後完全に取り乱し必死に食い下がる弓子の姿が印象的だ。ワイドショーのリポーターである香織にとって、これ程のスクープは無い。弓子を生き地獄に叩き落して、自分の手柄を上げる。それは弓子がそれまで犯してきた「人を利用し、その犠牲の上にのし上がる」という「悪」と、なんら変わりの無いことなのだ。
弓子の狼狽と香織の冷ややかな視線。悪魔のような香織の表情に「人間」を見たような気がした。誰もが心に闇を持って生きている。「だからって人を殺しちゃいけない」というのは香織が見せた最後の「善」ではあるが、これはさほど大きな意味を持つものとは俺には思えない。むしろそれが「善」であるかどうかは疑わしい。ともすれば、「死」よりも「生き地獄」の方が悲惨である、というのは弓子の狼狽が物語っているのだから。

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そんなこんなでストーリーはイイんだけど、ドラマ番組としての完成度はかーなり低かったかと。演者の力でカバーしてたのかな、という感じ。でも、石田純一石田純一にしか見えなかったのはどうなのかね・・・。あと、ごっちんの胸がおっきくてドキドキした。相変わらずエロスなボデーだ。